5. ゆるやかな標準としてのリファレンスモデル

それでは、ゆるやかな標準について、具体例をあげて説明しましょう。スモールシェフは、目玉焼きの達人です。彼の店の目玉焼き定食は絶品で、いつも行列ができます。競合する定食屋は、なんとか彼が作る目玉焼きが美味しい秘密を知ろうと、彼に詰め寄りましたが決して教えません。そればかりか、スモールシェフの厨房は、誰も立ち入ることができません。

ある日、ガスコンロが壊れました。スモールシェフは、コンロを分解して、すべて自分で修理しました。またある日、玉子の形がいつもと違うことに気付きました。スモールシェフは、養鶏所に出かけ、自分で鶏の肥料と飼育状況を確認しました。スモールシェフは、こうすることが当たり前だと信じ、こうすることに喜びを感じ、実際に店は繁盛し、いつも行列ができていました。ある時期から、スモールシェフは体調を崩し、店は閉店しがちになり、そして、病が悪化し、とうとう閉店してしまいました。

今ではスモールシェフの目玉焼きのレシピを知る人は、もう世の中には存在しません。スモールシェフは、その絶頂期に、周りの人にこう言うべきだったのです。「オレの目玉焼きは、玉子を材料として使って、ガスコンロで作るのだ!」と。あるいはさらに踏み込んで「フライパンは特製だが、油のひきかたと、火力の調節と、蓋の使い方がポイントだ。」くらいは表明してもよかったでしょう。なぜなら、これらはある意味で、目玉焼きを作るうえで当たり前の知識だからです。

この例で、目玉焼きは、玉子を材料として使って、ガスコンロで作ること、そして、目玉焼きにおいては、油のひきかた、火力の調節方法、蓋の使い方が品質を決定することは、厳格な標準ではなく、ゆるやかな標準です。この考え方に賛同するシェフだけが従えばよい内容であり、さらに、従ったからといって、目玉焼きがとびきり美味しくなる保証はまったくないのです。目玉焼きの店に行列ができるようになるには、ここで開示されたレベルから、さらに気の遠くなるほどの技術の研鑽が必要となります。

厳格な標準は、ある一定の品質を保証してくれます。一方で、ゆるやかな標準は、品質を保証しません。あえていえば、目玉焼きの作り方を1から勉強する人にとって、その労力をすこしだけ減らしてくれる効果はあります。では、ゆるやかな標準がもつ意味はなんでしょうか? ゆるやかな標準は、品質は担保しませんが、その代わりに、とてつもない大きな力を秘めています。それは、後述するエコシステムを形成する力です。

スモールシェフの例で説明しましょう。目玉焼きに関するゆるやかな標準として、材料や器具について定義し、さらに焼き方に関する1レベル深いステップと、そこでの評価指標を定義することで、目玉焼きの作り方という1つのモデルができました。これを、目玉焼きのリファレンスモデルと呼びます。これによって、新たな目玉焼きビジネスへの参入が起こり、ガスコンロなどの機器を提供する会社も技術改良を進め、玉子の生産者もより品質に注意するようになり、結果として目玉焼き人口が増えるのです。

スモールシェフにとっては、多くの競合する目玉焼き店ができても、お客様が減ることはないでしょう。コアとなる技術ついてはオープンにはしていないため、その地位を脅かされることもありません。逆に、目玉焼き人口が増えたことによって、来客数は増えるともいえます。ゆるやかな標準は、競争環境のなかで、協調関係を構築するために非常に重要な役割を担います。そして、標準として、競合相手との間でも共通の枠組みを設定し、その上で、個別の技術を付加し、差別化していくことができるしくみなのです。

ゆるやかな標準という考え方に基づいて、その具体的なしくみとしてエコシステムを機能させるために、リファレンスモデルを定義する必要があります。リファレンスモデルは、ゆるやかな標準の中核となるものであり、これによって、対象とする問題の構成要素や構造を定義します。表現する内容は、細かすぎてもだめですし、大雑把すぎてもだめです。リファレンスモデルは、対象問題において一般的にいえる共通部分と、それぞれの当事者ごとに個別である部分とを切り分けるものです。リファレンスモデルは、その内容および粒度や精度によって、競争領域と協調領域との境界をデザインし、より効果的な方向へ全体を誘導させるパワーをもっています。