3. 人、道具、機械、ロボット、そしてシステム

とはいえ、そうしたシナリオが単なる思い過ごしである可能性も高く、実際に、日本のものづくりは、まだ当分の間は世界でトップクラスを維持するでしょう。今日明日に、即刻手を打たなければならない状況でないかも知れません。まずは、ものづくりの本質にいまいちど立ち返り、日本のものづくりの良さを再発見したうえで、大きな目標をさだめ、それに向けてブレず着実に成果を積み上げるというスタンスで行く必要があるでしょう。

ものづくりの現状認識として、ここ数年、世界を凌駕するような魅力的な商品が日本から生まれていないのが事実だとすれば、それは商品のアイデアや発想力の問題だけではなく、“モノ”と“つくり”の距離が離れてしまったからなのではないかと思います。つまり、生産現場であれやこれやと試行錯誤する過程の中で、新しいひらめきやつながりが生まれ、それが最終的な商品のコアとなるコンセプトあるいはモチーフに成長していく場合があります。

もしそうだとしたら、製品の設計フェーズと、製品の生産フェーズは、表裏一体でなければなりません。事実、高度な加工技術をもつ町工場の生産現場は、オーダに対応した加工も、新たな図面に対する試作も、独自のアイデアや仮説にもとづく研究も、まわりから見れば何ら境界がありません。加工しながら考え、その新たな考えをもとに加工するといったスパイラル的PDCAにより、技術が磨かれていきます。生産現場は、知識創造の源なのです。

では、自動化、無人化といった取り組みは、こうした人間中心的なアプローチと相いれないものなのでしょうか? そうではありません。非常に逆説的ですが、工場を自動化、無人化するためには、それを実現する人たちが必要なのです。無人化工場は、それを作る人たちにとって、作る対象そのものであり、無人化工場を作り動かす場所が、彼ら、彼女らの生産現場なのです。無人化工場は、それを設計し、構築し、運用し、保守する非常に多くの人たちがいてはじめて成り立っているのです。

このように、ある種、メビウスの輪的なレトリックに惑わされないようになるには、システムという概念を、ここであらためて再確認しておくとよいでしょう。一般に、システムとは、“複数の要素で構成されており、お互いに複雑に関係しあうことで、全体としてひとつのまとまった振る舞いをするしくみ”をいいます。自動車も、携帯電話も、ロボットもみなシステムです。

ここで注意して欲しいのは、システムと“私”との関係です。あるいは、システムの内側と外側の境界についてです。自動車を運転するとき、あるいは携帯電話で通話するとき、私はシステムを利用するユーザであり、システムの外側にいます。一方、生産システムではたらく作業者である“私”にとって、私は生産システムの一部であり、システムの内側にいます。後者のように、人がシステムの内部にいて、その構成要素となっているものを第二種のシステムと呼ぶことにしましょう。

これまで、工学の世界では、自動車や携帯電話など、複雑なシステムですが、人がその外側にいるシステム(これを第一種のシステムと呼びましょう)を多く手掛けてきました。その反面、第二種のシステムは、その挙動が自然法則のみに依存せず、なかなか理論化できません。人は設計者が思った通りに動かないからです。まして、カイゼンすることで、生産システムそのものを作り替えてしまうような場合、それを理論的なモデルの中に押し込むことは、もはや不可能です。

ロボットがいくら人工知能によって賢くなったとしても、あくまでそれは人が作った自律的な機械でしかありません。一方、人を含む生産システムは、場合によって、どのような生産システムにでも自在に変容することが可能といえます。人とロボットの協調、あるいは人を中心とした生産システムが重要視されるのは、このような未知の状況への対応力が求められているからなのです。

日本的なものづくり、あるいはものづくりにおける日本人のアイデンティティを論じるときに、こうしたシステム論的な視点、あるいは人とシステムとの位置関係を基準とすると、いろいろと見えなかったものが見えるようになるでしょう。以下では、こうしたメガネを通して見えてくる日本のものづくりの新しい姿を議論していきたいと思います。